2010年03月08日

禁じられた避難

証言記録 市民たちの戦争 禁じられた避難〜青森市〜2009年8月12日デジタルBSHi
 太平洋戦争末期、比較的安全と見られていた地方都市にも空襲被害が拡大していた。1945年(昭和)7月14日、空母艦載機100機が青森市を空襲、市内で400人以上が犠牲となった。米軍資料によると、攻撃目標は、操車場、青森港、連絡線桟橋、輸送機関などとされ、石炭輸送に打撃を与え、工業生産を低下させるのが狙いだったことが分かる。
 その結果、身の危険を感じた青森市民の3割が、郊外や田園地帯へと避難したという。 
aomori01.jpg これに対して、県や市は、町を守るべき市民が空襲を恐れ避難したことに危機感を抱いた。青森県知事は7月18日、「家をからっぽにして逃げたり、山中に小屋を建てて出てこないというものがあるそうだが、防空法によって処罰出来るのであるから断乎たる処置をとる」と新聞を通じて警告を発した。 
 青森市も、全員で避難して家が無人になっている場合は、28日までに帰らなければ、配給を停止すると発表した。
 配給を止められると死活問題となるため、多くの市民が帰宅せざるを得なくなった。
 鳴海正子さんも、母親と娘の三人で避難していたが、帰ることにした。当時、中学生だった花田哲子さん方では、子供だけ夜の間避難していたが、それも止めることになった。青森市職員の中には、仙台空襲の体験から、新型焼夷弾の前には消火活動は無力であるから、避難した方がよいと提言する者もいたが実らなかったという。 
 7月27日、米軍は「28日、青森を含む11都市のうち4都市を空襲する」という6万枚の予告ビラを撒き、青森市民に避難を呼びかけた。米軍の資料によると、ビラの目的は、市民を動揺させることにより、戦争の早期終結を目指した心理作戦だったという。(確かに28日の空襲は、14日のものとは明らかに目的が異なっています。つまり、軍需生産に打撃を与えるの目的ではなく、多くの民家を焼き払うことにより、日本国民に厭戦気分を高めようというものです。そのためには、財産を焼失させればよく、命までは奪う必要はなかったといえます。そのために予告ビラを撒いたとも解されますが、それでも、老人や子供など多くの非戦闘員を無差別に殺害することになることは容易に予測できたはずです。このような、無差別爆撃は人道に反するとして、米軍内部にも異論があったようです。) 
 それを読んですぐに避難した人もいたが、米軍の謀略に過ぎないと無視する人もいた。結局、ビラはすぐに回収され、市民の目に触れることは多くはなかったという。 
 翌28日午後9時15分警戒警報発令。正子さんは、母親と娘の三人で地下室に避難。哲子さん方では、父親だけが残るが、他の家族全員で逃げることになった。 
 午後10時37分空襲。62機のB29の大編隊で、それぞれ9トンの新型焼夷弾M-74を搭載していた。このM-74は中に大量の黄燐が仕込まれていた。黄燐は空気に触れると自然発火する性質があり、水をかけると飛散して、乾くとまた燃え出すことにより、被害がさらに拡大するという厄介なものであった。米調査団も、「消防能力を上回った」とその成果を報告している。
 鳴海正子さん一家は、焼夷弾の威力に危険を感じ、1階に上がったところで火に囲まれ、気を失った。正子さんだけは奇跡的に助かったが、母と娘は助からなかった。 
 花田哲子さんは逃げる途中、サーベルを下げた兵隊に行く手を阻まれた。残って火を消せという言うのだ。それを何とか突破して逃げたという。同様の体験をしたという複数の証言があるという。 
 28日の空襲で、青森市街の9割が焼失、1018人が犠牲となったという。空襲から2日後、花田哲子の親戚みんなで行方不明のおじを探したところ、焼け跡から遺体が見つかったという。(ここのところは前半部分と食い違っているようですが、放送ではこうなってます) 

 あと半月で戦争が終わるということが、分かっていたら、そのまま避難を続けたでしょう。鳴海正子さんの残念さが思いやられます。平和のありがたみをつくづく感じました。
 それにしても、偶然の一致でしょうが、28日に期限を設定したのは、まるで空襲を予測したかのようですね。
posted by maro at 01:20| Comment(0) | BS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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